このページは、『伊谷純一郎著作集』の月報第3号の6〜8ページに掲載された「野生化ウシと伊谷さん」と題する私の原稿に、スペースの関係で掲載できなかった写真を加えて作成したものです

野生化ウシと伊谷さん

五百部裕

 伊谷さんが、野生化ウシの研究に関わっていたということをご存知の方はあまり多くないだろう。この研究、発足間もない人類進化論研究室を中心にして、京大理学部の4回生後期配当科目「課題研究」の一環として、1982・1983年度に鹿児島県トカラ列島口之島で行われたものである。

 そもそも伊谷さんが課題研究のテーマに野生化ウシを選んだ理由は二つある、たぶん。まずは1970年代半ばから始めたトゥルカナなどの牧畜民の研究。一見ほとんどなにもしない彼らの家畜の管理方法を目の当たりにして、家畜の行動研究の必要性に思い至ったのだろう。当時、霊長類研究所の大学院生だった鹿野一厚さんが小笠原諸島で野生化ヤギの研究を、また自然人類学研究室の大学院生だった太田至さんが隠岐で放牧牛の研究を行っていた。こうした中、口之島に野生化ウシがいるということを耳にした伊谷さんは、学生に調査させようと思ったのではないか。

 そしてもう一つの理由。それは当時の人類進化論研究室が「競争資金バブル」だったこと。野生化ウシの研究が行われた時期は、農林水産省の草地試験場からの研究費や文部省特定研究科学研究費補助金「生物の適応戦略と社会構造」が交付されていた時期と重なる。だからこそ、当時就職を考えていた私のようないい加減な4回生でも、ほぼ丸抱えで野外調査をさせてもらえたのだろう。

 さて課題研究の初日。人類進化のゼミ室に顔を出すと、伊谷さんが「希望する学生は、野生化ウシの調査のために鹿児島県の口之島に連れて行く」とおっしゃった。すぐさま私を含め4名の学生が参加を申し出た。こうして始まった野生化ウシの研究。それこそ研究のけの字も知らなかった私たちは、伊谷さんはじめ、研究室の院生や5回生だった木村大治さんなどの「指導」を受けながら、調査の分担を決めたり、家畜の行動の論文を読んだり、買出しをしたりと準備を進めていった。

 そして12月。現地調査が始まった。4回生に加え、木村さん、研究室の講師だった市川光雄さん、それにODの北村光二さんが同行した。伊谷さんは市川さんと入れ替わる形で途中から参加した。たった1ヶ月足らずの現地調査だったが、今思い返してもこれほど「楽しい」野外調査はなかったように思う。まずはウシの個体識別から始まり、名前をつけ、個体追跡。さらには植生調査や「至るところにある」糞の「分布調査」。その合間には、島の最高峰である前岳への登頂。そして調査から帰ってくると、毎晩芋焼酎を飲みながらの「打合せ」。調査地の立ち上げから始まって、予備的な調査から本格調査といった野外調査の流れすべてが体験できるとともに、直接、調査には関係ないかもしれないが、野外調査を進める上で欠かせない要素が満載された調査だったのがその理由だろう。「伊谷さんはすごく楽しそうだった」と北村さんが言っていたのが今でも印象に残っている。

 年が明け、この調査結果をまとめ2月に発表した。こうした一連の流れが本当に楽しかった。そこで就職が決まらずに留年した私は、研究室に出入りを続け、「大学院に進もう」と決意した。結局その年の院入試では、第一志望の人類進化論は伊谷さんに落とされ、第二志望の霊長類研究所に合格した。そして迎えた2回目の野生化ウシの調査。やはり12月に行われた。私は昨年の木村さんのような立場で調査に参加した。この年はちょうど日本に来ていたパメラ・アスキスさんや、研究室の大田さん、鹿野さんらも参加して、去年にもましてにぎやかな調査だった。伊谷さんも昨年に続き10日間ほど参加した。今にして思えば、たいした自覚もなしに伊谷さんとフィールドをともにするというたいへん貴重な経験を積んでいたことになる。楽しそうにウシのあとをついて歩く伊谷さんのあとをついて歩き、伊谷さんの言動を見聞きしているだけで、知らず知らずのうちに私の糧になっていたのだろう。実は、私はもう一度同じような体験をしている。それはワンバで加納隆至さんのあとをついて歩いたことだ。この二人のあとをついて歩いたこと。それが今の私がかろうじて野外研究に関わり続けている大きな原動力になっているのは間違いない。自戒の念も込めて言わせてもらえば、最近の若い学生はこのような「楽しい」野外研究を経験できていないのではないか? その原因は、指導者、学生双方にあるのだろうが・・・。

 さて今回この文章を書くにあたって、25年以上前の資料を引っ張り出していろいろ調べてみた。そこで驚いたことが三つ。まずは当時のフィールドノートに「何も書かれていなかった」こと。学部生とはいえ本当にいい加減なノートを書いていたものだ。二つ目は伊谷さんの指導力。課題研究の発表会の際の手書き原稿が出てきたのだが、その最初の稿に、あの懐かしい字体でびっしりと赤い書き込みがあった。たかが学部生の発表会の原稿にも、丁寧に目を通してくれていたことに今更ながら感激するとともに、学生のレポートに手抜きのコメントしか書けない自分が恥ずかしくなった。そして最後は俳句(?)。何も書かれていないフィールドノートの片隅に、川柳とすら呼ぶことができないような自作の「句」が書かれていた。たぶん口之島で俳句を詠んでいた伊谷さんに触発されて自分なりに考えたのだろう。蛇足を承知で、伊谷さん追悼の思いを込めて、この句でこの原稿を終わりにしたい。

荒海の 島影はるか だれを想う



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