作法学の構想

椙山女学園大学「社会と情報」所収 山根一郎

公開:2000.2.15


1. 問題
「最近の人間(特に若者は)作法がなっていない」とは,いつの時代でもいわれていることである.これは時間経過による「正しい作法」についての確然とした情報の拡散,すなわち情報エントロピーが増大したための避けられない現象といえるが,それだけではない.「 オヤジ」や「オバさん」という日常語が若者にとって不作法な中年を意味することにみられるように,若者にとって年長世代全般が作法の模範とはなっていない.これは世代ごとの「価値観の多様化」の現れともいえる.ただし現在の日本の状況は,さまざまな価値観が相対立しているというより,むしろ確信を持てるような価値観が見当たらないというanomie状況といった方がよい.言い換えれば,過去の規範がその正当性の根拠を生活スタイルの変化によって喪失したか,情報エントロピーの増大により不明瞭になったのである.それゆえ現在は,既存の価値観には疑問を感じるものの,それに替わる新たな価値観を持ちえない状況といえる.既存の権威が失墜したため,頭ごなしの強制は通用しなくなった.しかし,この状況は,新しい規範の構築が必要とされる準備状態ともいえる.根拠を喪失した作法ではなく,だれでもが納得できる作法を構築する時が到来したといえるからだ.
作法は所作の単なる知識ではない.作法は後述するように特定の価値観によって選定された行為である.作法を他者に求める場合は,その作法が表現している価値観に従うことを求めていることになる.
われわれは,時代遅れの価値観にもとづいた作法や価値観そのものを隠蔽した作法が作法として強制されることに批判の目を向け,さらに恣意的でなく科学的な,狭い領域でしか通用しない価値観ではなく公共的な価値観を明確にした作法を構成していく必要がある.そこで筆者は,作法を,私的団体が情報的に私有する有職故実としてではなく,人文・社会・自然科学的なアプローチで衆知を集めて公共的に探求するものと位置づけ,「作法学」なるものを構想してみた.
作法学を構築するには,作法を客観的に記述するための単位的概念,そしてあらゆる作法を同一の形式で描写できるメタ言語によって,作法を構造的に描写することが必要である.さらに学としての研究手順と研究目的を明確にする必要がある.作法の構造的記述については筆者がテーブルマナーのテクストを実例にすでに提出している(山根,1990)が,ここでは作法学の方法論としてさらに一般的な視点でとらえ直してみる.

1.1 作法とは何か
まず「作法」という用語を用いる理由を示す.日本の伝統的礼式(たとえば小笠原流)では,作法に対する用語を儒教的人倫を基準としているためか「礼法」と称している.しかし「礼法」の「礼」では「礼式・儀礼」など、対人場面での儀式的な所作の規範に限定されるニュアンスがある。ところが伝統的作法(書)でも実際には,風呂に入る時にどちらの足から入るべきか(たとえば「中島摂津守宗次記」)など、日常のさまざまな非対面場面での動作法も含まれる。また,われわれは儒教的人倫思想や日本の古典的礼式に限定された領域だけを扱うのではない.むしろ,現代から未来にかけての所作のあるべき姿を問題にする.そこで、対人場面に限定しない、より包括的・中性的な科学的概念として「所作の法」という意味での「作法(manners)」という用語を採用する。言い換えれば、礼法は作法の一部で、古典として伝承されている部分という意味になる。
さらに積極的に意味づけるなら,作法学における作法は,場面における最適所作を追及するものである.では,どのような基準における最適性なのか.筆者が準拠している小笠原流礼法を参考にすれば,少なくとも身体構造と操作対象との力学的関係,および他者に対する自己提示という2基準が存在する.
身体の動作法および物の扱い(たとえば箸の持ち方)などでは,「粗相」すなわち操作ミス(slip)を回避するために,身体構造に適合した直線的で合理的な動作法が追及されてきた.この領域は市販の作法書でテクスト化されることが少ないため,作法の領域として世間に認知されることが少ないが,作法教室では,最も重要な実習項目である.
次に,作法は対面場面での適した意思表示という側面がある.たとえば,食事作法は上述した粗相の回避のほかに,充分賞味するという提供者側に対する配慮を表現する.しかし和食では,箸先の濡れた部分が短いほど良いとされるように,(中国料理と異なり)あからさまな食欲の表現を抑制することも要求される.
では,上の2基準はどちらを優先すべきなのか.それは場合によって異なる.たとえば,物の扱いの作法で「右手で」という指定は,絶対的に右手なのか,それとも相対的な利き手を意味するのか.これが問題になるのは,所作者が左利きの場合である.左利きである筆者が教わった礼法では,通常の物の扱いでは,上の指定は,利き手を使う意味とされた.それは作法の目的が上述した粗相の回避のためであるという(利き手でない手で操作すると粗相しやすい).しかし,宗教儀礼の場合は,個人の利き手にかかわりなく,右手という指定は絶対となるという.それは,利き手の問題ではなく,「右」に宗教的意味が付与されているためである(ほどんどの宗教は右を神聖視,左を不浄視した価値観をもっている).
また,作法とはどのような活動での所作までが含まれるのか.それは,日常生活で意識的な所作が成立する範囲であるが,固有の所作法が適用される特殊の活動は含まない。たとえば,スポーツのルール、機器の操作法が所作を規定している場面は対象としない.

2. 作法学の基本概念
2.1 記号としての作法
作法は,目に見える所作面と,それに対する社会的評価の面からなる.これを,Saussure流の記号論でいえば,能記(signifiant)と所記(signifi)の結合したもの,すなわち[形態|内容]の結合体としての記号(signe)である.まず,作法学は,作法を社会的に制度化された記号としてとらえる.Saussure的な記号論の応用には,Barthes(佐藤訳,1972)の先行例がある.彼はモード(ファッション)雑誌のテクストの記号論的分析から,モード(流行)にひそむイデオロギー性が抽出できることを示した.モードという「流行っている/流行遅れ」の価値体系にはそれを操作しようとする側のイデオロギー(価値観)が潜在しているように,作法という行動規範にもモードと同様(それ以上)に,価値観が反映されている.何に対して配慮するかによって,所作の適性が異なるからである.であるから,作法に従うとは,その価値観に従うことを意味する.ここに作法が社会的に強制力をもっている場合の問題点がある(作法が内在する価値観を拒否する者は,価値観ではなく本人の道徳性が疑われてしまう).作法を学問的に論じることは,現行の作法を批判する視点をもつためでもある.作法を記号としてとらえる場合,言語記号の分析のように,たとえば単語,文,言語体系を記述する,単位化とメタ(記述)言語が必要である.
まず「作法」という用語を厳密にしよう.「作法」は,「ことば」と同様,個々の所作評価の記号の場合にも使われる一方,それらの集合(体系)としても使われるため,術語としては曖昧(多義的)である.そこで,個々の所作記号と,それらの集合体系(langue)とを概念的に区別するため,前者を「作法素」,後者を「作法体」と名づけることにする.「作法」は,さまざまな「作法素」とその集合である「作法体」との総称である.これは「言語」の,「発話」とその発話を可能にしている「言語体系」に対応する関係と等しい.
記号としての作法を研究するアプローチとして,Morrisによる記号研究の3分類,すなわち統辞論(syntax),意味論(semantics),実用論(pragmatics)に則して論じてみる.

2.2 統辞論的問題
統辞論という記号論的には記号同士の関係すなわち連辞(syntagme)の問題は,作法にとっては2種のレベルに分けられる.一つは,具体的な所作を規定している「命題」内の連辞的構造であり,他は,作法とされる所作の時間的・空間的(身体的)連鎖構造である.ここでは前者の構造に絞って論じる.
山根(1990)は,作法書から作法構造を抽出するため,そのテクスト内で特定の所作について評価的に言及した個々の文を「作法命題」と名づけ,その命題は条件項、行為項、機能項、評価項の4項からなることを示した.ただし,4項すべてがテクスト化されるとは限らず,たとえば,現実の作法教室では,行為項は実際の所作で実演される部分に相当する.そのため「作法命題」というテクスト的表現による制約を排すために,特定の所作についての記号論的作法単位を「作法素」と名づけた.そして,その作法素を構成する要素(作法要素)を上の4項に対応させて条件素、行為素、機能素、評価素とした(それぞれの説明は後述する).これら,とりわけ条件素と行為素は言語的に与えられる必要はなく,実際の作法書にみられるように画像であってもよい.
たとえば母親が小さい子に「人前で,鼻をほじるのは,みっともないから,やめなさい」という命令を発したとする.これを作法命題と解すると,「人前で」(条件項),「鼻をほじる」(行為項),「みっともないから」(機能項),「やめなさい」(評価項)と分解できる(図1).これをさらに作法素に変換すると,「他者と同席時」(条件素),「自分の鼻の穴に指を入れる」(行為素),「みっともない」(機能素),「禁止」(評価素)となる.このように作法命題と作法素とはほとんど対応するが,作法素の4要素は,他の作法素との比較を容易にするため,より一般的な意味に抽象化される(映像で与えられた場合は作法命題を経由せずに作法素に変換する).ところで作法素内の作法要素は,それぞれの範列(paradigme)において,さらに階層的集合に分類できる.それをGreimas(田島・鳥居訳,1988)にならって「クラス」と名づけた.クラスを構成している特定の要素(値)が,「素」となる.たとえば,条件素となる会食場面が,食前・食中・食後と3相(phase)に分節される時,それらの相の値(たとえば「食後」)は食事相素となり,その集合は食事相クラスとなる.これによって,条件素はその下位に会食クラス,さらにその下位に食事相クラスと階層構造で表現されることになる.このように各作法要素は,階層的な重層構造になっており(図2),当該の階層よりも下層にある要素レベルは「素」となり,より上層にある要素の集合レベルは「クラス」となる(言い換えれば,ある特定水準の階層は,より下層からみれば自層と同列層の集合体としての「クラス」であり,より上層からみれば自層を構成している「素」となる.したがって「素」も「クラス」も相対的な意味づけとなるため,本稿では階層要素を表現する場合は,「〜素」という表現で「クラス」をも含意させることにする).
作法要素の階層化によって,作法体ごとに条件や行為,評価クラスの分節の異同を表現できる.このように構造の異なる作法体を共通して記述するのが,作法要素間の連鎖としての作法素である.ひとつの作法素は最大4種の作法要素からなるが,各作法要素は,分節されたクラスの集合体・連合体からなっている.

次に,作法素の構成要素である4つの作法要素について述べる.
行為素:行為素は,作法素のsignifiant面であるが,それ自体で所作という形態とその意味をそなえた[形態|内容]という記号的構造をもっている.その形態面(映像で表現できる)を身体素,内容面を行為意味素と名づける.
身体素は,身体の運用や所作の形態が作法対象となる場合の身体分節(関節群単位)である.所作は,肘や指の曲げ具合のように身体素の客観的な描写が可能である.しかし,文化(作法体)に固有の姿勢・所作も存在する(結跏趺坐,十字を切るなど)ため,身体素の特定の値の集合パターン,すなわち所作素クラスが存在する.
行為意味素は,食べる・持つ・話すなど行為(目的遂行行動)の意味単位である.「〜の時は,食べてはいけない」など,行為の有無自体が作法対象となる場合は,「どういう所作で」という身体素は問題にならない.この場合の行為素は,行為意味素であるが,もちろん行為意味素は身体素の結合として表現されていることにはかわりない.

評価素:評価素は,作法素のsignifieであり,本質的には可/否の2値でたりる.可否のどちらにも分類されない場合は,作法素とはなりにくい.作法書でもっとも多用される表現は「する/しない」の指定/否定という2値表現である.しかし後述する作法の実用論的世界では,評価の意味空間は可否の両端の間を数段階に分節化している.

条件素:作法はT・P・Oに依存している(小笠原流の伝書では「時宜によるべし」)といわれるように,条件素は,行為素と評価素との一義的連鎖(硬直化)を限定し,その連鎖を多様化する働きをもっている.行為素を限定するという意味で行為素側(sinifiant)側に配置する.というのも,裏命題変換(山根,1990)によって,「Aのときは,Bしなくてはならない」という作法素は,「Aでないときは,Bしなくてもよい」と変換(裏関係の作法素を導出)できるからである(実用論的には,原命題が真の時,裏命題も真となりうる).
条件素の下位クラスでもっとも重要なのは場面素という作法空間の分節である.「冠・婚・葬・祭」も4種の場面素である(最上位の場面素クラスは,吉事/凶事の水準であろう).また所作主体の性・年齢・身分など,あるいは喪主・一般参列者など対象との関係としてのカテゴリーである(所作)主体素も行為素の適否を規定する.

機能素:機能素は,行為素の効果・説明であり,評価素の根拠でもある.行為素に対する意味内容(signifi)という位置づけもできるが,評価素よりも行為素に付属する機能という意味で,作法素では行為素側(signifiant)に配置しておく. 機能素のクラスは以下のものがある.
効果クラス:他者配慮,操作性,所作美など.「みっともない」はおそらく所作美に入るが,主観性が強いため,説得性に欠けるであろう.
制裁クラス:他者配慮違反などの結果,嫌悪・軽蔑などの社会的制裁が起こりうる場合(日本の作法書が最も強く準拠しているクラス).
そのほかに権威素クラスや内在クラスがある(詳細は山根,1990)
これらクラスは並列関係にありながら排反せず,一つの行為素に同時に連合しうる.その場合,複数の機能素の線形的結合値が評価素の値と結びつくとみなせる.この[機能素|評価素]の結合様式が,価値観(価値の序列パターン)の表意作用とみなせる.
要素の欠落と補充:4種の作法要素がすべて充当されている作法素は理想形である.実際に収集できる作法素は,機能素や条件素が欠如したものが多い.これらは構造的に欠如しているのではなく,作法命題レベルで省略されている場合が多いであろう.ただしいずれにせよ,それらは社会的記号としての作法素(作法命題)としては不完全(不親切)である.要素の欠損がもたらす効果としては,条件素の欠落では,場面の般化や行為素の評価的一義化をもたらす.機能素の欠落では,価値観を潜在化させ,価値観を行為者に意識させることなく作法を実行させようとする.これは作法が陥りやすい欺瞞性といえる.欠損した要素に対しては何らかの手段で補充することが必要である.要請される場面・理由を明確化することで,その作法素が要請されたより正確な姿に戻せる(それを作法とした確固とした理由があったはずである).儀式の由来や手順などは古文献などから得ることはできる.しかし「正しさ」の根拠を古文献に依拠することは,時代感覚を失った由来還元主義に陥りやすい(その立場では,現行の儀礼はことごとく誤ったものとして否定せざるをえない).また本当に充当不可能であるなら,効力の失った恣意的な作法素と判断せざるをえない.

2.3 意味論的問題
作法にとっての最終的な意味次元は,それが適礼か非礼かという評価の次元である.作法としてはそれ以外の特定の意味をもっている必要はない(この立場から,機能素をsignifiant側に配置した).したがって作法の意味論は,形式的には評価素と他の3要素との組み合わせの問題ということになる.そのため作法命題における意味論は所作の表意作用の構成論である統辞論に吸収される.しかし,行為素・条件素には評価素とは結合しないレベルの意味がある. その例として,「格」の問題を挙げる.
「格」は,主に条件素に結合している作法的価値序列であり,広く解釈して「儀礼性・正式性の度合い」と定義できる.たとえば,通夜よりも告別式の方が儀礼度が高く.儀式としての「正式」な度合いが高い.したがって参列者の服装も通夜よりも「格」上なものが求められる.一般に儀礼度の高い場面ほど,許容される所作の選択肢は少なく,違反に対する制裁は強い.
儀礼度(格)は人にも結合する.身分の高い人との同席は儀礼度が高くなる.高位の人との同席が息苦しいのは,自動的に儀礼度が高い場面になるため,所作の自由度が少なく,違反する可能性が高いためである.儀式の場合は,儀礼主体(当事者)との関係の近さが儀礼度を個別に分ける.近親者ほど儀礼度が高く,血縁でなく心理的にも遠い(親友でない)下位者(年少・部下)ほど儀礼度が低くなる.また儀礼度が低いとされる者が,必要以上に儀礼度の高い所作(着座位置・服装・供物)をするのも作法違反となる(葬儀の時,一般参列者は遺族よりも強い悲嘆を表現してはいけないという).
周知のように空間内にも上座・下座の格差がある.では上位者が下座席に座った場合のように,空間の格と人の格がずれた場合はいずれが上座になるのか.この判断は作法体の価値観によって異なりうる.小笠原流礼法では,この場合人の基準を優先する.すなわち,空間よりも人の方が格が高いのである(上位者が上座を固辞したつもりでも,本人は常に上座に位置しているのである).

2.4 実用論的問題
成文法においても,法執行は条文の機械的適用ではなく,情状や不可避性などを勘案してなされる.同様に,作法という慣習的規範でも,基準としての作法素がそのまま社会場面に適用されているわけではない.現実の行動と現実の評価から,われわれが実行している実用レベルでの作法素が生まれる.
作法書では,評価素が指定/否定(する/しない)の断定的2値しかもたないように,成文化された作法命題は理想型である.実際には,作法通りに振る舞わなくても,どこにもたいした影響が出ない場合がある.そしてその場合,多くの人は(たとえ作法を知っていても)作法通りに振る舞わない(名刺の受け渡しを作法書通りに両手でするビジネスマンは少ない).高次の視点からみればそれも適礼なのである.小笠原流礼法でも「目に立つならばそれも不躾」といって,いかにも厳格に作法通りやっていると人目に付いてしまうのは,場を共有する人に対して失礼に当たると伝えている.
強制度:上の問題を作法構造上に置き換えると,評価素空間は現実(実用論的)には,可否の2値ではなく,さらに柔軟に多段階化されているということになる.この評価素空間は可否の質的次元とそれに直交する強制度という量的次元からなっている.といっても実際には,両端が強制度が最強となる二次曲線的に,評価素は命令(しなくてはならない)、推奨(した方がよい)、許容(してもよい)、抑制(反推奨、しない方がよい)、禁止(してはならない)などの値として順序的に分布している.
逆からいえば,すべての所作の選択肢には,可否には還元できない,より微妙な評価が存在するということである.たとえば,和室に入る際,一礼した後,どちらの足から踏み出すべきか,という問題は,現実にはどちらの足からでも大差がなく,ほとんどの人は作法として配慮しない.その意味で,仮に作法があったとしても強制度が低いのである.しかし,左右どちらの足から踏み出しらたよいかは作法的に判断(作法素化)すること可能である(小笠原流礼法では,踏み出すべき足の選択は室内の上座や同席者との位置関係によって判断される).同じ「可」とされる所作の間でも,推奨される度合いが異なりうるのであり,最も推奨される所作の「最適値」が存在することになる.すなわち,ある条件素での実行可能な所作群は,最適,許容範囲内,許容範囲外の3群に分類することができる.こうすれば,指定/否定いずれにも該当しなかったため全く言及されなかったばく大な行為素を,それぞれ作法素として作法空間に組み込むことが可能となる.それは所作を堅苦しく制限することではなく,「やったほうがよい/やってもやらなくてもよい」かを明確化することでもある.
権威素:記号と使用者との関係の問題である実用論的空間には,今一つ重要な問題がある.それは作法の強制力の源泉は何かという,作法を社会的記号たらしめる力の所在の問題である.作法は実定法ではないため,違反しても非公式な社会的制裁を受けるだけで,よほど儀礼度が高い場面以外では,あからさまな制裁は受けない.作法を裏付けているのは権力ではなく,権威にすぎないためである.言い換えれば,作法は強い権威をもたないと,社会的に受容されない.作法が準拠している特定の権威を「権威素」と名づけた.「小笠原流」・「英国王室」などが伝統的権威素となっている.

2.5 作法体
作法素の集合を筆者は以前の論文では「作法体系」と称していたが,実際にはその集合が体系化されているとはかぎらず,非構造的である可能性もある.そこで「作法体」とよりあいまいな名称に変更した.作法体は,条件素・行為素・機能素・評価素のそれぞれの集合面からなる四面体というイメージである.しかし作法素のように,実際に観察可能な状態で提示されることがないため,その全貌を把握することは困難である.個々の作法素は,特定の作法体の構成要素であり(それゆえ作法「素」と名づけた),作法体は作法素を産出している母体という位置づけになる.その意味で作法体は具体的な作法素の背後に「存在しているはず」の理念的構成体である.作法体は要素である作法素の収集によって,条件素や行為素という作法空間の分節状態,行為素と機能素の関係(行為の理由づけのパターン),機能素間の優先順位(評価素に与える効力の大きさの違い)などの構造的特徴が把握でき,作法体レベルの体系が構成される.
ところで,作法素が「同じ作法体に属する」という同属性の根拠は何か.その同属性は,作法素を束ねる原点にあって,作法素そのものにはない.といっても実際の作法体は,「小笠原流礼法」・「英国式マナー」のように固有の名称をもっている.その名称が人々に実行を促す社会的効力をもっている場合,その名称そのものが権威素となる.実用的には,作法体は同一の権威素から発せられる作法素の集合と定義できる.その権威(社会的効力)は作法体の内的力によっているのではなく,権威素の社会(ブランド)的地位など,作法体自体の特質とは無関係の要因によっている.
作法体間の競合:その社会で通用している作法体が単一でない場合,特定場面(条件素)でのそれぞれの作法素が矛盾しあう場合がある.作法体間の競合は,特定の条件素についての作法素において以下の2パターンが考えられる.まずは条件素と評価素が同じで行為素が異なる(異なる所作)場合で,茶道の流派による所作の相違が相当する.権威素の力(権威)が等しい場合,対立は無化され,任意化(どちらでもよい)される場合がある.また,条件素と行為素が同じで評価素が異なる場合がある.これは社会に混乱を与えるものである.このような作法体間の対立は,室町時代の武家社会でも生じた.当時の3大礼式家である,小笠原・今川・伊勢の三家は混乱を防ぐためにそれぞれの作法を融合した試みがあるという(「三議一統大双紙」).近代以降では伝統的儒教的作法体と輸入された西洋的作法体とが併存して機能しており,それらは特定の条件素で背反的な所作を要求する.たとえば,伝統的には,座している上位者の前で,下位者は立ち上がってはならないが,西洋では逆に,座している上位者の前では,下位者は立っていなくてはならない.また,和食では小鉢は手に持たなくてはならないが,洋食ではサラダの皿も手に持ってはいけない.また,箸では食物を刺してはならないが,フォークでは刺してよい.

3. 作法学の構成
以上のような基本概念にもとづいて,作法を社会的記号体系として探求するのが作法学である.探求の過程は作法素の収集,批判,構成の3段階からなり,それぞれ人文,社会,自然科学的アプローチがとられる.

3.1 作法素の収集
作法学の実証研究は作法体ごとの作法素の収集から始める.実質的には,作法体は著者・団体・書物・ビデオなどの名目的/実質的構成主体と同義とみなす.作法素の4要素に則った収集が必要であり,条件素はもとより,潜在化されている機能素や評価素の強制度の収集も忘れてはならない.
収集された作法素から,作法体の顕在化・構造化がなされる.そして顕在化できた作法体をその構造的完成度の視点から評価する.この評価は,もちろんその形態的完成についてであって,この段階では機能素の妥当性(価値観の是非)を問うものではない.構造的完成度とは条件素が充分に分節化されており,評価素も最適値・許容範囲内・許容範囲外と分節化され,機能素が顕在化されることで根拠・価値観が明示され,結果として作法素間が論理的に整合的である度合いをいう.
ここで構造化されるのは理念型としての意味論的作法体であって,人々が実際に運用している実用論的作法体ではない.それゆえ収集のための資料は,作法書などのテクストもしくは映像教材などである.ただし,既存(伝承)資料のみを作法素の出典とするがゆえの限界もある.最大の問題は機能素が推定できないことであるが,それは作法体自体の欠陥ともいえる.また陥りがちな問題として,伝承された作法を文化財的な価値にまつりあげ,実用論的変異を「作法の崩壊」と嘆く懐古主義になってしまうことである.既存の作法体の構成作業だけでは,作法という行動規範の現状描写と追認以上のことはせず,作法体が内在する価値観を批判する視点には至らない.それには次のアプローチに移る必要がある.

3.2 作法批判
作法学の次のステップは,顕在化された作法体が準拠している価値観(イデオロギー)を吟味することである.
抽出あるいは推定された機能素から,機能素が準拠している価値観の社会的妥当性を批判できる.伝統的に正しい作法とされている行為が,現代では容認できない差別的価値観や不必要なジェンダー意識の表現である場合もある.実態運用調査によっても,現行作法の不備や欠陥を指摘できる.男性ビジネスマンの夏の服装のように,慣習的には作法とされていることが,本人や周囲に不快を与え(たとえば部屋の冷房を強めすぎる)ていることはもっと議論されてよいし,あるいは携帯電話の使用など,伝統的作法体からは全く言及されていない新しい事態についてなんらかの作法素を構築する必要が求められている.何度も繰り返すが,作法に従うとは,その価値観に従うということである.とすると,生きたわれわれに必要なのは,古びた価値観を墨守することではなく,現在の社会に合意されている価値(たとえばセクシャル・ハラスメントやエネルギー浪費を防ぐ)を,どう作法素にスマートに反映させるかになる.
作法について作法として議論をできるグラウンドをつくるのが作法学の任務である.「これが作法(マナー)なんだ,マナー違反はモラルに反する」と強弁されたら返す言葉がないという状態ではなく,その作法素の条件素の適応上の問題,機能素の妥当性の問題,評価素の強制度上の問題,他の作法体における相当する作法素との比較などを冷静に検討することが必要である.
どのような作法を改変し,またあらたに考案されるべきかは,実社会に権威を認められている権威素こそ積極的に実践し,社会に提言するべきである.そしてわれわれの作法学はこれら権威素に公平に情報を提供することが役割となる.
では,社会的価値の実現としての作法は,社会的価値そのものを批判する立場ではないため,結局は価値相対主義に陥ってしまうのか.あるいは作法の社会性を失って個々人の勝手な価値観による分裂を許すのか.いいかえれば,追及すべき普遍的な所作・真の動作合理性というものを追及しないのか.作法の社会的性格を強調するあまり,所作の合理性という作法の本質的部分を見失ってはならない.

3.3 最適所作の追及
作法は対人場面での相手に対する所作のことだけではない.作法は「立ち居振る舞い」とも言われるように,所作のあるところ必ず作法がありうる(立位,坐位からはじまり,歩き方・方向転換,物の運び方・液体の注ぎ方なども作法教室では実習される).作法はまずは自分の身体への配慮から始まるのである.それゆえに社会文化的基準を越えた人類に普遍的な基準が作法の第一基準となる.すなわち身体構造と重力との関係における力学的に最適な所作である.これは体育学やキネシオロジー(動作教育学)の問題でもあり,モノとの関係が加われば,人間工学の問題となる.たとえば椅坐姿勢が悪くなるのは,作法の問題ではなく,人間工学的視点でデザインされない椅子の問題であることが多い.特に椅子文化の浅い日本では,椅子=腰かけという発想の不完全な椅子が多い.坐位以上に問題なのは,人間(ヒト)としての動作の基本である直立二足歩行が衰えつつある点である(これにも歩行には向かない履物の流行もかかわっている.モノがいかに人の所作を規定しているか,人間工学的反省が必要である).文明の発達は,進化的に不完全な二足歩行からくる疲労を安易に軽減する方向に逆行しはじめている(より不完全な原人・猿人的姿勢に戻ってしまう).象徴的に言えば,人間(ヒト)としての作法は,正しく歩くことから始まる.
ここまでくると,明らかになるのは,作法学は,記述学段階としては既存の作法体の分析であるが,その真の目的は自ら一つの高次の理想的な作法体をつくることである.作法学において構築される作法体は,狭い文化的慣習を記述した小さな作法体ではなく,根拠が明確で納得でき,適用に柔軟で,合理的で身体に優しく,見た目にも美しいものとなる.

4. おわりに
最後に,これからの作法の構成を考えるとき,伝統的作法体に根本的に欠けていた要素が鮮明になる.それは「公共に対する配慮」という機能素である.言い換えれば,伝統的作法体では,眼前の評価者に対する配慮だけが作法の根拠であった.アカの他人に対する所作は,たとえば近代以前の日本でも「江戸しぐさ」として江戸町民の間で洗練された都会人のマナーとして成立しつつあったが,テキスト化された作法体には至らなかった.
そして人類の活動が地球規模になるに至った現代,この「公共」という視野の重要性が,時空を越えて拡大している.公共に対する配慮は,「今ここで」を共有しない不特定多数に対する配慮,そして遠い子孫たちに対する配慮,生存を支え合っている他の動植物に対する配慮,母なる地球に対する配慮などになっている.古い作法をいくら学んでも,この新しくもっとも重要な配慮は学べない.お仕着せでなく(機能素が明確で合意されている),硬直していない(条件素に応じて強制度が異なる)「公共のマナー」の確立が急務となっている.
作法は他者との対話であるばかりでなく,自分の身体との対話であり,モノとの対話であり,世界との対話である.このように作法とは,世界との関係の仕方を実践において最適化する学なのである.

文献

1) 山根一郎 1990 作法書による行動規範の構造分析(1):テーブルマナーの分析の試み  対人行動学研究9 1-14

2) バルト,R. 佐藤信夫(訳) 1972 モードの体系 みすず書房
(Barthes,R. 1967 Syste'me de la mode. Paris,仕. du seuil)

3)グレマス ,A.J. 田島宏・鳥居正文(訳)1988 構造意味論 紀伊國屋書店
( GREIMAS,A.J. Semantique structurale -recherche de m師hode,Paris,Larousse,1966 )

4) 塙保己一編・太田藤四郎補 1959 三議一統大双紙 続群書類従第二十四輯上(訂正三版) 289-337

5) 塙保己一編・太田藤四郎補 1959 中島摂津守宗次記   続群書類従第二十四輯下(訂正三版)147-172

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