武家礼法:暴力なき武士道

小笠原宗家礼法総師範 源松斎山根菱高

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「武家礼法」は武芸とともに武士のたしなみであった。すなわち武家礼法は、武士としての所作を実現するものであり、町人の「ビジネスマナー」や婦女子の「お作法」とは本質的に異なったものである。武家礼法においてこそ、現代の我々が実現できる武士道となりうることを追究したい。


武家礼法にたずさわっている私は、現在、二つの違和感をかかえている。一つは現代の風潮に対する違和感。それは「武士道のなくなった日本」に対する違和感である。今一つは歴史的な武士道そのものに対する違和感
すなわち現代人の在り方に問題を感じているものの、単純に昔の武士道を復活せよとは思えないのである。そしてこの二つの違和感同士が相矛盾しており、高次の第三の違和感となっている。これらの違和感を解決するには、現代に通用する新しい視点の武士道を構成していくしかない。その解決は、「武家礼法」以外に見出すことは難しい。以下に新しい武士道としての武家礼法の意義と実践法を論じていく。

1.現代の風潮に対する違和感:享楽と功利

今の若者にとって、自分の範としたい尊敬できる大人は見当たらないだろう。世間を見渡しても、自分勝手で、金と欲に振り回され、ふるまいが醜い大人ばかり。ブランド物を買うために援助交際する少女の醜さ。その少女を買う大人の男の醜さ。それは自分の欲望を全開する堕落した姿。放縦(欲しいまま)の醜さ。「衣食足りて、更なる衣食を求める」それが現代人。享楽主義。外見を飾ってる人は多いが、生きるための矜持・美意識が感じられない。生き方が美しくない人間はどう着飾っても美しくないのだ。

そしてその享楽を満たすため、手段を選ばない金儲けに走る功利主義。なにも「振り込め」詐欺だけを言っているのではない。まっとうに生活している人においても、この功利主義は蔓延している。なんでもビジネス(儲け)に結びつける商業主義。その態度は「創造的なビジネスマン」として社会人の模範とさえなっている。しかしつまることろは利に敏(さと)いだけではないか。利の追求を旨とする商人の論理が人生すべてとなってしまう。「損得」が行動の原理となっている。

江戸時代の武家政権は商業を軽蔑・軽視したがゆえ財政的に崩壊した。 確かに経済の価値は否定できない。まず人は生きるための糧を得なくてはならない。しかしそれは生きるための必須の「手段」ではあるが、決して「目的」となるものではない。手段が自己目的化してしまっては永遠に真の目的に近づくことはできない。
だからスーツを脱いだら、もうビジネスマン(商人)でいる必要はない。自分の人生の目的の追求に戻るべきだが、実はそこに本当の自分を見出せる人は少ないのではないか。手段のみに汲々としている生活で終ってしまう。それは永遠の不満・不全感を生きていくことを意味する。人生の目的が見えない混迷状態から脱することができない。だからなおさら、その場しのぎの享楽(快)に金を費やすことしかできない悪循環に陥る。
「一回だけの人生をどう生きるか」という最大・根本の問題から逃げない人にとっては、 衣食を得るためだけに 忙しそうに働くだけの蟻のような生活も、その場しのぎの享楽に流れるだけのキリギリスのような生活もどちらもむなしい。なら人間は蟻でもキリギリスでもない生活を送れるのだろうか。

心ある人は、このような不全感を感じているからこそ、利を越える価値を得て、利を第一原理とはしない生き方をしている人へのあこがれが生じる。たとえば「新選組」などの武士に対する強い憧憬となる。彼ら武士は享楽的で自分の利しか考えない弛緩した生き方の対極にある。死を忘却してそれを隠蔽したがる、すなわちハイデッガー的にいえば「頽落」(たいらく)しきっている現代人の対極にある。若い人々(若くない人たちも)が新選組に対して熱烈に共感しているのを見ると、現代人の心根は決して堕落しきっていないことがわかってうれしくなる。なら、現代人は「武士道」を復活して生きればいいのか。

2.歴史的武士道に対する違和感:暴力と隷属

しかし無反省に「武士道に戻れ」とは言えない。なぜなら、その武士道そのものもまた大きな問題を抱えているからだ。憧れの対象となっている「新選組」を例にしても、その暴力主義に嫌悪感を覚えるのも否定できまい。武士とは、本来は合戦で手柄をたてることが最高の名誉なのだが、ある博物館で見た、合戦で打ち取った数箇の敵兵の首(頭部)を自慢気に腰や鑓にくくりつけた武者の絵を見ると、「野蛮!」以外の感想をもてなかった。また特に江戸時代の武士道にみられる、主従関係を絶対化する奴隷道徳には魅力を感じない。さらに忠義や意地で簡単に切腹する「死に狂い・死に急ぎ」(死の安売り競争)に、生の忘却を感じてしまう。この自己中心的な死に急ぎは軍事的には貴重な兵力(利)の損失であることが忘れられていく。
このままでは 、われわれは「生=利の享楽」(死の忘却)と「死の安売り」(生=利の忘却)という欠点だらけの両極端しか選択肢をもちえない。在るべき真の答えはその中間にありそうだ。それは合戦や切腹場面でない、平時の武士の姿にある。武士道の本質を維持しているが、暴力(武術をも含めた)の気配をもたない武士の在り方。そんなの在るのか。
在る。それが「武家礼法」である。

以下の内容に続く予定 乞う御期待

刀も主君もない武士は可能か。武術と礼法の関係、心の脇差を持つ

現代武士の実践:日常生活における「負け」、負けないための所作、日常に生かす武家の作法、武家詞(ことば)のさりげない復活、現代武士の装い など


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