無礼なオトナが多すぎる

若者は,オトナからみて,いつの時代でも無礼だ.なぜなら若者がオトナ以上に礼儀を知ることはないから.でも最近は若者から見てもオトナが無礼になっている.

年下の者の無礼は「無知」と解釈すればまだ許せる.若者に作法を教えるのはオトナのつとめだ.ところが,そのオトナが無礼なのだ.若者に作法を教える義務があるオトナはその「無知」が許されないから,本当の無礼になってしまう.

なぜ最近のオトナが無礼なのか

  1. 戦後の混乱期・価値観の混乱によってまともな作法を学ぶ機会がなかった.
  2. 堕落した儒教的価値観によって年下の人間には無礼でかまわないと思っている.
  3. 評価者の前での伝統的作法は知っていても,アカの他人同士の公衆道徳(現代作法)の気遣いがない.

というわけで,オトナは,年下の人間に対して・公衆道徳という場面で,特に無礼なのだ.

これらの不作法には共通点がある

このような身勝手な状態を,小笠原流礼法では,「我(わ)が十分」になっているという.それは,自分を全開にして人前で自分を出しすぎることである.
自分の存在は 他人にとっては邪魔なのだ.だから自分を出すことはそれだけで迷惑となる.無礼なオトナは,この「我が十分の不作法」というのを知らないわけだ.「人前」での伝統的封建的作法観に馴らされているオトナは,公衆場面は評価場面に入らないのだ.これは公衆意識の欠如である.

いわば,自己制御力がないのだ.そもそも自己抑制こそが作法の本質である.抑制をしない者は幼稚か野蛮とみなされる.

オトナが尊敬されるとすれば,それは修練を積んで人間としてより完成されている場合に限る(そのオトナこそ「大人」だ).「近ごろの若いやつは」と言って他人を批判する前に,どうか若者が見習いたいと思う大人に,若者に範を示せる大人になってほしい.

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