作法(学)への誤解:作法は習俗ではない

作法の本質を理解しているつもりの人が多いが、本当に理解している人は少ない。小笠原流の道場に通って、昔の礼書を読めば作法の本質は理解できるが、たいていの人はまともな礼書を読まず、周囲の素人の口づてか、習俗を網羅しただけの孫引きだらけの「冠婚葬祭」の本を読むだけである。

作法を理解していないのは、一般人だけではない。作法を扱う歴史学や民俗学の研究者も同レベルだ。これらの人たちは作法と習俗(儀礼故実)とを同一視している。この同一視が作法を理解していない証拠。

そもそも学問には「どうあるか」を探求する事実学と「どうすべきか」を探求する規範学がある。

民俗学や歴史学は事実学である。ところが作法は人々の実際の行ない(習俗)のことではなく、その行ないを批判し、より洗練させようとするものである。作法は行為(事実)に対する規範であるから、その作法を批判的に分析する作法学も当然に規範学である(規範の事実学ではなく、規範の規範学)。

事実学は事実として行なわれているものがすべて等価で正しいとされる。規範学は「正しいかどうか」を吟味するものであり、その正しさの根拠(価値観)を反省的に抽出する。たとえばある所ではAという動作法が、別の所ではBという動作法が行なわれているとする。事実学では両方とも追認するから、「二つの動作法がある」と結論し、「所変われば作法も変わる」と相対化する。

 

それに対し、作法学ではAとB の動作法の正しさの度合いを吟味し、どちらがより適しているか判断する。具体的にいえば、二つの動作法があって、一つは誤解によって伝わり、頭ごなしに正しいと思い込まれているものと、他は価値観を正しく実現しているものがあれば、もちろん後者を正しい作法と判定する。

この判断の基準、価値との整合という基準は、2種ある。一つは作法体系内の内的整合性、たとえば陰陽思想によっているなら、男は陽、女は陰と対応させているなら整合となる。これは習俗の背後にある世界観との整合性であり、自ら準拠する世界観と論理的に矛盾する恣意的な変異を批判するものである(作法家が人々の習俗を批判するのはこの視点)。

もうひとつは外的整合性。作法を越えた外的価値、たとえば「男女平等」という価値との整合を吟味するなら、陰陽の序列によって男女を序列化する発想は、時代に合わない古い作法として自ら批判する。この外的整合性こそが、作法そのものを恣意的でなく作法自らの改革として変化させる原動力となる(作法学が作法それ自体を批判する視点)。

作法が単なる習俗(故実)ではないのは、価値実現への絶えざる最適化という運動である点。これは私の勝手な決めつけではない。二千年前の作法書『礼記』以来、大昔から言われている。そして室町時代の小笠原流礼法は『礼記』の精神を受け継いでいる。むしろ、いつから作法の本質が忘れられてしまったのか。そっちを知りたくなる。