雛飾り配置の真実それは式三献の理解がポイント

内裏(だいり)雛の男雛・女雛(歌にある「お内裏様とお雛様」は正しくない。"雛"は人形すべてを指す)の並びや三人官女の持ち物について、巷のサイトでいろいろ説かれているが、きちんとした根拠に拠っているものは見当たらない。

そもそも江戸時代の民間習俗は作法の根拠にならない。儀式はどうあるべきかは、庶民が実際にどうやっているかという民俗統計的問題ではなく、本来はどうなのかという作法的問題である。たとえば、神社の参拝の仕方は、信仰心の乏しい参拝者が実際にやっているいいかげんなやり方が標準なのではなく、二拝二拍手一拝という作法が決まっているのと同じ(中には寺の参拝にも柏手を打つ人がいる)。

雛飾りを作法的に解明するには、まず「雛飾りが表現している対象は何か」を知ることから始まる。もちろん、それは「婚礼」の風景。ならば、婚礼はどうやるのか。それは「式三献」(「三三九度」の儀)である。
なら式三献はどうやるのか。それは現代にまで及ぶ日本礼法が確立した室町時代、幕府が京都にあったため、鎌倉の武家風(合理的・禅風)と京都の公家風(呪術的・陰陽道(おんみょうどう)風)が融合した時代の礼書(作法書)に具体的に載っている。それらを読んで、婚礼の式三献の風景がわかれば、巷の民俗的諸説の正否がおのずと分かる。以下、その根拠にもとづいて内裏雛の並びと三人官女の役割の2つの問題を述べよう。

1.内裏雛の並び

室町時代の 嫁入りの作法書(庶民用ではなく将軍公方家御用達)に「男の左に女のなるやうに」とある。つまり当時、上流階級の婚礼(嫁入り)の時の並びは、男から見て左側に女、言い換えれば、向かって見て、男・女、の位置になっていた。これで問題解決。市販されているおおかたの雛飾りは合格である。

ではその配置の根拠は何か。奈良時代以来、日本の儀礼の根底にある規準は陰陽(いんよう)五行である。それは当時の作法書にも明確に書いてある。

嫁入りは祝儀ではあるものの(実は儒教では婚礼は祝儀ではなかった)、女を迎えるので「陰の式」といわれた(男=陽、女=陰だから)。残念ながら、現代の小笠原流内にも「陰の式」の正しい意味が伝わっていないようだが、「陰の式」は古代中国(世界最古)の儀礼作法書『儀礼』(ぎらい)から延々と決まっているものだ。

陰の式だから、女が上座に位置する、という理屈になる。また陰の式だから昼ではなく夜(昏)にやる。だから「婚」と言う字は、昏(夜)に女を迎えるという意味。そして通常の部屋では上座は奥の左側(客位)であった。当時の小笠原流の礼書にも「嫁取りのときは女房客位(上座)たるにより、陰数を用うるなり」とある。だから実際、盃も嫁から飲みはじめる。つまり、婚礼の男女の並びの問題は、盃の順番とも連動しているのであるから、雛人形の並びだけを問題にして、あれこれ類推しても正解には達しない。作法は構造的に見なければならない。

ただし、武家は迷信的陰陽思想に公家ほどには束縛されない(例えば、出陣する時に「方違え」などしない)ので、違う理屈も考案しうる。もう少し人間的な理屈として、私が個人的に一番納得する理由は、江戸時代の博識の作法家、伊勢貞丈の次の説明(現代小笠原流の公式見解とは異なるが)。

婚礼の時も、初め式三献以下夫婦いまだ盃をとりかわして以前迄は、女を客人の心にて、盃も女より呑みはじむるなり」ということで、嫁入りの時は、嫁はまだ客人だから、敬意を表して客位(向って右)となり、先に呑むのである。早い話が、嫁入りは昔から花嫁が主役だったわけだ。嫁を迎える側は門前にかがり火を焚き、新郎が花嫁の一行を迎えに行く(儒教由来)。これは客を迎える最上の礼である。

ちなみに上のいずれの論理でも、男が養子に入る”婿(むこ)入り”の時は、逆になってしかるべき。実際、当時の小笠原流では「婿入りの時、酌はまず婿の前に向きて(中略)、酒をつぐべし」とあり、婿が先に飲むことがわかる(婿入りの時の男女の配置の記述は見当たらなかった)。

もっとも空間の上座は、たとえば床の間が向かって左にある逆勝手(普通は向かって右の本勝手)では左右が逆になる。その場合は向かって見て、女・男の位置になる。

ただ、江戸時代に入ると、陰の式や嫁=客人という視点が忘れられ、生れによって人の価値が決まるという封建体制的儒教思想が強くなり、(伊勢貞丈によれば)嫁入りであっても男が常に上座という配置が通例になっていったという。もちろん盃の順も「男先ず呑みて女にさす事」となる。だから江戸時代もだいぶ下ると、男雛が向って右のパターン(つまり婚礼以外の通常の男女の並び)も出てきた(現代人はこちらのパターンが「伝統的」だと勘違いしている)。

だから、「現代流布している男雛が向って左のパターンは新しく、男雛が向って右の方が由緒ある」と考えるのも間違いで、もともと由緒あるのは現代と同じ並びの方だ。


2.三人官女の持ち物

三人官女の持ち物こそ、「式三献」グッズである。つまり、三人官女の持ち物が雛飾り=婚礼であることを証拠だてている。だから、内裏雛と三人官女のセットが婚礼の儀式の雛形として必要(実際においても)。それ以下(以外)の人形(赤い顔の右大臣など)は本来は存在しない。もし他に欲しいとすれば、人形ではなく、輿や小袖、愛敬(あいぎょう)のお守りなどの嫁入り道具。

官女たちを持ち物で区別しよう。まずは中央のいわゆる「三方(さんぼう)」。これは盃を載せる台の下に衝立がついたものである。だから台の上には盃三枚のミニチュアがほしいところ。ただ正確には、三方はその名の通り三方向に穴があいたもの(だから三方という。「三宝」は誤解を招く当て字だから使わないこと。もちろんほかに「四方」も「二方」もある)。1つもあいていなかったらそれは供饗(くぎょう)という名。供饗の方が三方より格が高い。内裏様の婚礼なのだから、三方よりも供饗が望ましい(四面すべてに穴のあいた四方でもよい)

ちなみに人形メーカーによっては島台(しまだい。飾りの肴を載せた台)にしているところもある。島台も婚礼の儀には当然必要なのでそれでもいいが、三方や供饗でないと左右の官女との組み合わせが意味的におかしくなって、式三献を表現しなくなる。婚礼の儀=式三献なのだから作法学的には、島台よりも三方等の方がベター(見てくれは島台の方がいいが)

次に、長い柄のある酒器は「銚子」。盃に酒を注ぐもの。長い部分を長柄(ながえ)というので、銚子のことを「長柄」とも言う。いずれにせよ「長柄」または「銚子」であって、「長柄銚子」という表現はおかしい。ちなみに現在の飲み屋で言われている「お銚子」は、役割と注ぎ口でいえば確かに銚子だが、器の形でいえば瓶子(へいじ.神社での御神酒を入れる酒器)由来の酒器である「徳利」(とっくり)のこと

把手のある酒器の方は「(ひさげ、提子とも書く)。銚子に酒を加えるためのもので、「加え」ともいう。銚子とは見た目もまったく別の道具(燗鍋の元)。銚子でないのだから「加えの銚子」というのは大間違い(人形メーカーは使用をやめてほしい)。表現としては、銚子ー提、長柄ー加え、という組みでよく使われる(つまり長柄−提という組は使わない)。以上から、三人官女が手にしている、盃(三方)・銚子・提が 連携して式三献を進行させることになる。

そして酌人(ここでは左右の官女)については、長柄役を「本酌」、加え役を「(つぎ)」という。
すると新たな疑問。中央の三方を持っている役は何ていうの?

実は、実際の婚礼では、本酌が銚子より前に、最初に三方を持ってくるのだ。だからナマの式三献では二人いればいい。じゃあ一人余分なのかというと、式三献の「通い」(給仕)として、最初に杯の載った三方を配置する係がいる場合もある(このパターンが丁度下の話題の三人官女の持ち物と符合している)。その他に絶対必要な人員として、婚礼の席には、嫁が盃をのむ際の「介添え」として女性が一人ついていた((まち)女房ともいう)。だから必要な人員としては、やはり三人。

3.三人官女の並び

では、三人官女の並びはどういう規準なのか。作法の世界では、一般的に3体が横に並んだ場合は、床の間の三幅対と同じく、中尊(中央)>客位(中尊の左に立つ=向かって右)>主位(中尊の右に立つ=向かって左)の格順となる(左が右より格上なのは陰陽思想による)。式三献の道具では、盃がもっとも格が高く、本酌の銚子、次酌の提と続く。だからそれぞれが中尊、客位、主位の位置になっている場合が多い(室町末期の作法書でも銚子と提の位置が逆に指定しているものあるが)

そして、この両酌は、式三献の最後に、それぞれ雄蝶(おちょう)雌蝶(めちょう)となって、二匹の蝶が愛し合うように戯れ、やがて一つになる、という生物学的な結婚を象徴する複雑な足の運びをして下がる(日本の伝統的婚礼もけっこうロマンチックでしょ)。

以上、内裏雛と三人官女では、並びの作法的規準が異なることにも注意してほしい。

あと、三色の菱餅(私は東京のおこし製が好き)は小笠原家の家紋「三階菱」から来ていると主張する故実学者もいるが、実は菱餅は中国の上巳(じょうし/じょうみ)の節句(3月3日の本来の節句)の風習からきている(端午の節句の粽(ちまき)に相当)。日本の歴史民俗学者も中国の思想・習慣を勉強しないとダメよ。

※ここでは問題を雛飾りが準拠している婚礼の式三献に絞った。上巳の節句と流し雛との関係などは、どこでも同じ出典に依っているので説明に大差ないはず。また当日催される「曲水の宴」も中国の風習の輸入であって、京のみやびの平安貴族から生まれたものではないからね。

ひとことだけ言っておくと、「雛飾りを3日すぎて出していることをはばかるのは、流し雛の風習から来ている」、という解釈はあまりに民俗学的すぎないか。もう江戸期の都市の武家・町人の間では雛人形は完璧に女の子のための婚礼の飾りであって、上巳の節句の発想は消えていた(その証拠に「巳の日の祓い」はその日に誰もしないでしょ。端午の節句においても同じ)。むしろ、大規模化した雛壇を女の子がいつまでも飾っておきたがって、部屋が狭いままなので、片づける口実として、女の子が絶対従う理由(嫁にいけなくなるよ)を思いついたのだと思う。つまり民俗学ではなく心理学だ。

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