箸を持つ手はどっち?:左利きは不作法か

私は完ぺきな左利きだ.左利きであることに「誇り」を持っている.左利きは神に選ばれし存在とさえ思っている(思いすぎ?).でも左利きはどこにいっても人口1割程度で永遠のマイノリティだ(その上私はMacユーザー).幸い,私の祖母(キク)が左利きだったためか,右利きの両親から右利きに曲げられることもなかった(「右に矯正」という表現は差別的).

 

無作法扱いされた経験

大学1年の時,伝統文化を学ぶ授業で,茶道の実習があった.外部から茶の先生が来て,茶席での客の作法の指導をする.和室に一列にすわって,まず菓子を順にとる.先生は当然のごとく「右手で箸をもって,左手で添えて,菓子を取ります」と言う.そこで私は手を上げて質問.「左利きなんですが,右手で取らなくちゃダメですか?」   するとその先生一瞬考えて,「右手でやってください」.

左利きという存在が否定(これは失礼でないのか)されたものの,授業だから仕方なく従う.でも利き手でない方で箸を使うということがどういうことかわかる? しかもその時の菓子は,柔らかい葛に覆われたものでプルプルしていたんだ.まるで不器用なガイジンのように悪戦苦闘をしていると,周囲の学生や手伝いの弟子たちがクスクス笑う.恥ずかしさで真っ赤になった私は心に誓った.「茶なんか絶対やるものか」.

利き手の作法的意味

そして,数年後,小笠原流礼法の門を叩いた.そこで私が最初にたずねたのは,「左利きを通すのは作法にかなうのか」ということ.私の質問に答えた菊谷菱春先生も実は左利きだった.なんて答えたと思う?

先生の答えはこうだ.動作で最も大切なのは,粗相(失敗)をしないこと.利き手でない不器用な側の手で動作をすれば当然粗相しやすくなってしまう.だから利き手で動作をするのが作法なのだ,と.それを聞いて私は,形だけをマネするお稽古事的作法とは違った,「真の礼法」に接したことを実感した.

小笠原流礼法にも茶の作法がある(抹茶と煎茶).ただし抹茶は千家流でなく,侘茶の開祖村田珠光の一番弟子で奥義を受けた古市播磨澄胤の系譜だ.だから茶をやらなくてはならないのだが,もちろん,そこでは堂々と左手を使える(ただし器具の配置の関係から一部だけ).先生も私が居る席では,教える時に「右手で」と言わずに「利き手で」と言ってくれる.その時思ったのは,左利き者用の点前(「左点前」)を制定すればいいのではということ.

確かに右利きにとっては「利き手」と「右手」の区別がつかない.それに対し左利きなら,利き手と右手は別なので,作法として両者を混同することがない.その意味では,左利きこそ,作法を正しく学べるといえる.

 

テーブルマナーと利き手

◇家族とレストランに行った.ナイフとフォークが左右に並んである.私は自分が使うために左右を逆にした.すると給仕の女性が元に戻した.彼女が去ると私はまた左右を逆にした.するとまた給仕は元に戻す.西洋料理では「ナイフは右,フォークは左が正しい」と思い込まされているようだ(地元でも).「ナイフは利き手」にあるべきなのに.

◇家族と加賀料理の「大志滿」(新宿店)という店に行った.普通,和食では「飯は左,汁は右が正しい」と教えられる(どうしてか?※).ところが,私が左手で箸をもっているのを見た給仕の女性は,次に運ぶ時から,私にだけ,汁を左,飯を右に置いてくれた.感動した.「汁は右手」でなく,「汁は利き手」という正しい作法が分かっているなんて! 左利きの客に対する作法を心得たサービス! 利き手と右手が区別できないお茶の先生なんかよりよっぽど立派.加賀百万石の文化はダテじゃない.

※粗相(椀を倒すなど)して惨事になるのは飯より汁である.だから汁の方をコントロールしやすい「利き手」側に置く.これが和食の正式(小笠原流)な作法だし、洋食でも同じ。


「右手」が正しいとき

ただ,作法として利き手ではなく「右手」が正しい時もあることは確か.たとえば通常の宗教儀礼の場合だ.儀式では利き手でなく「右手」と指定してあるから.なんでかというと,世の中の宗教はことどとく右利の右利きによる右利きのための宗教だからだ.それら”右利き教”は「左手は不浄」だという偏見をもっている.私個人は,トイレでは右手で拭くので,右が不浄の手なのだが….シーク教徒であればターバンをかぶったままでも失礼でないように,左利き教徒では左が神聖な手であるということを認めてくれないものか.
だから「右が正しい(right is right)」世間の中では、私は他人と握手をするときも「右手」を使う.

戻る