貞宗と赤沢氏

赤沢氏神伝糾法修身論体用論書かれる前の礼法

貞宗は礼書を書いたか

小笠原貞宗が礼法の始祖というなら、貞宗は実際に礼書をしたためたのか。彼の礼書があれば貞宗と礼法の関係は明確になるのだが。
以前は「小笠原宗家」と称していた小笠原清信氏系の赤沢家では、貞宗と赤沢常興が共同で『神伝糾法修身論』と『体用論』を著したと主張している。

赤沢氏

そもそも赤沢氏とは、小笠原長経(2)の次男清経が伊豆国守護となり、伊豆の赤沢(現伊東市)に住んだのが始まりという、かなり初期の分家。南北朝時代となると、小笠原惣領家から時間的にも空間的にも離れて久しいが、常興の父長興は惣領家からの養子であり、また貞宗の母が赤沢家の娘との説もあり、それなら両者に交流があってもおかしくない。

その後、長時と同時期に赤沢氏から経直または貞経が出て、赤沢氏側の伝承によれば、惣領家および京都家から礼法一切を相伝され、これより礼法の本家となったという(当然、惣領家側にはそのような言い伝えはない。その頃は松尾系や伊豆木系にも相伝されている)。また、これら中世の赤沢氏については、歴史の第一線に登場しない事もあって、子孫が主張している系譜は歴史学的には疑問が多い(検討対象になっていない)。

その後、赤沢家は徳川将軍に仕えて、小笠原姓に戻り、江戸府内で流鏑馬を担当したという。明治以降も小笠原清務が道場を開き、あちこちの学校で礼法を講じた。それゆえ小笠原流礼法といえば最近まで赤沢氏の礼法が代表していた(江戸時代に庶民に「小笠原流」として広がった水島流は別として)。

先の2書の話に戻ると、惣領家側の資料ではそれらの書の存在自体認められてこなかった。小笠原家の公式家譜である『小笠原系図』・『勝山小笠原家譜』・『笠系大系』のいずれも、後醍醐帝に貞宗が家伝奥義を奉ったとあるが、常興とともに礼書を著したとはまったく書いておらず、これら家譜は共通して長秀(10)あたりの『三議一統』を当家礼書の嚆矢としている。それゆえ現在の惣領家(宗家)でも『三議一統』を最初の礼書としている(正確にいうと、現在の惣領家側では貞宗が『修身論』を書いたと言及してはいるが、その内容にはまったく触れてない。たぶん赤沢家の伝承を借用しているのだと思う)。

神伝糾法修身論

その1335(建武2)年に書かれたという『神伝糾法修身論』64巻は、260年後の1597(慶長2)年に(当然ながら)別人によって書かれた序文によると、欽命といいながら直接命じたのは足利尊氏であり、貞宗に頼まれた常興がほとんど中心となって編纂したとある。その64巻の綱目内容の目録(言語令・換骨令・陶器令など)も慶長2年になって書かれた。その中の『言語令』はすでに貞宗の著でないと主張する研究者がいる(島田勇雄)。
もし貞宗が関与したなら、彼の思想的影響関係からみて、禅的価値観(表現)が前面に出てしかるべきだが、序文を読む限り、儒教色一色でそのような雰囲気はなさそう(「修身」は儒教用語)。

そもそも、『神伝糾法修身論』はなんで260年後の16世紀末になってから序文と目録が書かれたのか。赤沢家においても1614(慶長19)年の将軍秀忠、そして1635(寛永12)年の将軍家光の命によってこれらを閲覧させた時に、なぜか慶長2年の序文と目録だけで本体を披露していない。1678(延宝6)年将軍家綱に家伝書を提出したリストにも『三議一統』はあっても、この書はない。

一方尾張徳川家の蓬左文庫(現在は名古屋市所轄)に『神伝糾法』なる書があるが(「糾法」だから小笠原流)、そこには「此の七巻の神伝糾法」と記され、巻数がだいぶ違う。

私自身この書の本体に接してないのでこれ以上は何とも言えない。

体用論

一方『体用論』は糾法における修行論ともいうべき書で、始祖の書というより、総合的体系化段階の書という観がある(体・用の用語も剣術書によく見られ、江戸時代的であると指摘されている)。実際、小笠原流を含む室町時代の武家礼書と比べると記述が異質すぎ、後続するはずの『三議一統』・『礼書七冊』との連続性がまったくない。

さらに当時の貞宗の武将としての東奔西走の活躍から、そのような書をしたためる時間的余裕はありえないという意見もある(二木謙一氏は『犬追物目安』など他の書も貞宗でないとしている)。やはり学者らがいうように、これらは江戸時代近くの赤沢家の作ではないか。

といっても『体用論』および修身論の一部とされる『換骨法』は、作法素を列挙した一般的な礼書でははく、糾法(弓法)修行の奥義書といえるものであり、異質な書・後代の書だからといって小笠原流礼法の理論書としての価値は失われない。これを読めば、糾法としての小笠原流”礼法”とは考え抜かれた動作法のことであって、(歴史学者を含めて)通俗的に思われているような、単なる故実儀礼(冠婚葬祭)の細かな知識でないことがはっきりとわかる。

書かれる前の礼法

そうなると、貞宗の礼書は存在しないことになる。だが、それによって「貞宗が礼法を制定したというのは嘘」、ということにはならない。
武芸としての礼法は(単なる儀礼故実とは違って)弓術や剣術と同じくその本質は動作法であるから、本来的にテキストによって成立するものではない(たとえば、ある剣術の完成は、その剣術書の出版を要件とはしないはず。だからたとえテキスト化しても肝心の所は口伝となる)。
そもそも作法書が世に出る動機は、世の中の作法が乱れだした時に、通俗の所作と正しい作法との混同を世間に正すためである。つまり作法書の成立は、その作法の成立から時間的なずれを前提とする。たとえば『三議一統』が書かれた理由も、複数の礼法が並立している混乱を収拾するためであるというから、書かれていないが存在する礼法が前提となっている。

いずれにせよ、物的証拠はないため、貞宗が礼法を制定したというのは立証も反証も困難だろう(論理的には、所与の命題が立証不可能なら判断保留となる)。なので私としても、小笠原流礼法と禅清規をともに作法学的に分析することによって、両者の関連性を作法素単位で論理的に示唆することしかできそうもない。

さて、その貞宗は、その『修身論』が書かれたという建武2年に信濃守護となり、信州松本に居を構えた。いよいよ小笠原氏の最盛期というべき信濃守護時代が始まる。小笠原惣領家は、礼法だけやってれば済むような立場ではない。

参考文献 
小笠原清信『小笠原家弓法書』講談社 (神伝糾法修身論序文・目録と換骨法抄・体用論抄を所収)
『神伝糾法』 名古屋市蓬左文庫所蔵
『体用論』 名古屋市蓬左文庫所蔵
二木謙一『中世武家儀礼の研究』吉川弘文館
島田勇雄『小笠原流諸派の言語関係書についての試論』(島田勇雄先生退官記念ことば論文集)前田書院


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