ラスト・サムライ 土方歳三
       ひじかた  としぞう

 を追って

日野江戸京都五兵衛流山会津函館板橋


左の写真(もちろん原板はモノクロ)は,終焉の地函館で撮影された土方歳三 満33歳の姿.フロックコートに懐中時計をつけたベスト,首に白いマフラーをあしらい,髪も総髪にして後ろに上げている.1年前はだんだら染めの羽織りで京を闊歩していた新選組副長がこんなモダンな姿に.しかし日本刀は手放さない.
第一に顔がいい.彼に会った当時の人々が一様に「役者並みの美男子」と評している.現代的な顔をしている。同志近藤勇の武骨を絵に描いたような顔とは対照的.女性だけでなく同性から見てもかっこいい.まずはこの顔で彼を好きになる.土方は最後の突入前,この写真を,16歳の小姓(市村鉄之助)に故郷日野の実家まで運ばせた(この市村を死なせたくなかったことが同封の手紙でわかる)

私の曽祖父は幕臣旗本(鎌田)であり,幕軍の一員として最後の拠点函館まで渡って新政府軍と戦った(旗本の義務を貫徹したわけだ).だからその子孫である私も「佐幕派」である(ちなみに,旧幕臣の子孫による「幕臣会」という会がある.会の集まりでは,当時の大政奉還は正しかったかという議論がされてるという).その佐幕派にとって,鳥羽伏見戦以降の歴史は耐えがたいものだが,その中で綺羅(きら)星のごとく輝かしい存在は土方歳三だ.彼の活躍が救いとなっている。

もとは幕臣でもない庶民の出なのに,彼ほど妥協なく真摯に幕府のため(慶喜や会津候のような個人のためではなく、武家の棟梁のため)に戦い,散った男はいない.むしろ武家の生まれでなかっただけに,自らの意志と努力で武士に「成った」男である.しかも幕末から明治二年の幕軍降伏までの過程で,最も美しく輝くサムライであった.義のために身を挺して戦うという「誠」の姿は,それが敵を臆させるほどの「強さ」を伴わなくては,時代を読めない単なる守旧者に終わり,サムライとしての「美しさ」にまで昇華しない.サムライの美しさとは,時代の流れにうまく乗る先見性や身の保全のための狡猾な転身にあるのではない.自らをたのむ義を貫徹し,それを阻害する者を果断に倒し続ける純粋な強さにある.戦国の武将でいえば上杉謙信だ.

土方歳三は武蔵多摩は日野の生まれ.武蔵は坂東武者の故郷,文字通り武者の蔵である(武州出身でなくとも「武蔵」は武人の象徴.武蔵坊弁慶,宮本武蔵のように).このような土地柄のため,出自は豪農の四男坊だが,実戦的剣術(天然理心流)を身につけ,太平の世でふ抜けた武家を尻目に無双の剣客集団「新選組」の中の最精鋭部隊を実質的に取り仕切る(しかし,時代は彼を単なる剣客では終わせなかった).幕府が瓦解し,ここで終われば,新選組同志の近藤や沖田と同じく,夜明け前の悲劇の人で終わった.

しかし土方は,更に北へ転戦して最後の最後まで幕軍として戦う,そして戊辰戦争を戦う中で,天然理心流の剣士から,銃砲を主とする近代軍の指揮官に脱皮成長し,宇都宮城奪回や松前城陥落などで戦場の指揮官としての天賦の才を発揮する(洋式軍事教育など受けていない).北海道でも土方の部隊だけが西(新政府)軍をさんざん苦しめた.そして五稜郭開城の直前に,包囲する新政府軍の銃弾の雨の中に,籠城を好まぬ彼は自ら最後の反撃に打って出て散華(さんげ)する.満34歳と6日の命は意地を貫いて死んだ.榎本武揚とここが違う.洋装のサムライ土方歳三の戦死は,武士の時代の終焉を象徴している.彼は自らの存在を完遂させるべくして死んだのだ。


●武州日野:家・墓 

土方歳三資料館

多摩の日野市石田には今でも「歳(とし)さん」(彼は若い時地元でそう呼ばれていた)の育った家がある(生家ではない).歳さんは生涯独身だったので,彼の直系はいないが,実兄の家系が健在で,うれしいことに歳さんの資料館を開いてくれている.ただし土方家の私的なものなので,開館日は毎月第三日曜のみ.だから月に一度の開館日には,門前列をなす.

 私は2002年12月の開館日に訪問した.まずは京王線「高幡不動」でおりる.ここにも歳さん関係の場所があるが.開館時間が限定されている資料館に急ごう.モノレールに乗り換えて「万願寺」下車.なぜか方向感覚が狂って南北逆に歩いてしまったが,資料館は駅から不動方向に戻ってすぐ.通りを渡って次の路地を右に曲ると,右手に生家がある.入館を待つ行列が道路にまであふれている(右写真).しかも大半は若い女の子.もちろん歴史好きなおじさんもちらほら.でも今日は客が少ないほうで,夏などはずっと待つという.後ろの若いカップルは新選組の話で盛り上がっている.さすがここに来るのはただのカップルではない.

 資料館と言っても,一室の狭い木造家屋(下写真)で,家の好意による開館で,一度に30名ずつの入れ替え入場.入り口には歳さんが武士になる誓いに植えたという竹が今でも青々と生い茂り,あまり精巧でないが胸像もある.靴を脱いで中に入ると.ガラス越しに歳さんの着けた鎖帷子(かたびら)の頭巾,斬った相手が数知れない名刀和泉守兼定,直筆の手紙,俳号を「豊玉」と名乗った句集などが展示してある.歳さん自身が売りに歩いた実家の製薬「石田散薬」関係の道具も置いてある.歳さん関係の見たい物がすべて間近で見れるわけだ.
 畳に座って後ろで家の人の説明を聞く.説明する歳三(地元で生活していた頃は「歳蔵」)の血縁者である子孫の女性は,面長で品があり,歳さんの写真を彷彿(ほうふつ)とさせる.本やグッズもあり,歳さんの写真の資料館特製テレホンカードとポスターを買った.

門前には,「日野新選組同好会」の若い人がいて新選組の衣装で署名を募っていた(写真).2004年の大河ドラマは「新選組!」(三谷幸喜脚本)なのだそうだが,流山での近藤勇と歳さんの別離で終わるので,函館での歳さんの最後が放映されないという.それで函館まで放映してほしいとの署名を募っているのだ(地元日野をロケしろというようなエゴではなく,函館戦が新選組の真の最後であり,新選組を正しく描いてほしいという気持ちからだ。

追加:そしてその願いはNHKに通じて、大河ドラマの一年後に特別編として「土方歳三最後の一日」が放映された).この署名は,高幡不動駅前でも商店会の小学生の女の子がやはり新選組の衣装で募っていたので,私はそこですでに署名をしてきた.ここでは写真を撮らしてもらった.それにしても歳さんの生きざまに共感している若者が多いのはうれしい.日野の土地も歳さんの故郷の自覚が出ている.

石田寺

さて,次の詣で先は,歳さんの墓のある石田寺(せきでんじ).大通りを渡ってコンビニがある角を左折.歩くと,あちこちに「土方」姓の表札.このあたりは本当に土方の里なのだ.石田寺には大カヤがあり,多摩の社寺にふさわしい風情.墓地は「土方家之墓」ばかり.土方家は地元の名家だということがわかる.その中に目立たぬように,歳さんの墓がある.墓地に不似合いな若い女の子が集まっている所がそれなので遠くからでもわかる. といっても土方家が新しく建てたので墓石は真新しい(下写真).墓前には真新しい花と例の写真が飾ってある.

墓前に置いてあるノートには,歳三のような男性が今はいないという女性の書き込みがあった.私も同感.ここに来る人はみんな歳三の男(の色)気に惹かれてやってくる.

墓碑銘には,「俗名 土方歳三義豊 明治二年五月十一日 箱館一本木関門に於いて戦死 享年三十五才」とある.

義豊(よしとよ)は成人してつける諱(いみな).享年は数え(満+1)の年齢.

高幡不動

高幡不動に戻る.不動の門前には,「歳三まんじゅう」などを売っている「松盛堂」があり,店内にさまざまな歳三・新選組グッズもあるが,まずは不動に参詣.若き歳さんが剣の稽古をしたという境内には,新選組時代の凛々(りり)しい歳三の銅像がある(写真).その右には近藤・土方の逆徒とされた汚名を晴らすために小島鹿之助が建てた殉節両雄之碑がある(篆額の揮毫は新選組の雇い主松平容保。慶喜でなくてよかったよ)。境内奥の大日堂内には歳さんの位牌もある。5月第二日曜の「歳三忌」には新選組の隊服を着てのパレードがあるという.

門前の松盛堂に戻り,歳三まんじゅうと「誠」の赤い文字の入った袖章を買う.袖章は新選組隊士が互いに分かるように腕に付けたものを模したもの.新選組に憧れる者は買おう.模擬刀セットも1万円ちょっとで安い(後日、ここで小刀と刀掛台を買う。大刀の方は浅草で「土方歳三拵え」なる模造刀を2万円で買った。でも名古屋の大須で同じものが9800円で売っていた)。浅葱色の隊服はパレードでもない限りちょっと…。
昼食をとるなら、当然、駅前から南の通りに入った所にある「池田屋」でしょ。メニューは新選組隊士などの名になっている(値段も手ごろ)。初回の注文はもちろん土方歳三丼(日野では私の頭の中は「歳さん」なので、思わず「歳三丼」と言ってしまった)。次回は誰にしようかな。

佐藤彦五郎記念館

2006年、日野宿本陣跡の近くに、佐藤彦五郎記念館がオープンしたので、同年8月に行った(民家の一部なので毎月第三日曜のみ)。佐藤彦五郎宅は、歳さんの姉のぶの嫁ぎ先で、のぶになついていた歳さんがよく訪れた。そして天然理心流の道場を自宅にもっていた彦五郎宅に、近藤勇が教えにきていた。つまり歳さんの義兄にして近藤勇と義兄弟の契りを結んでいた佐藤彦五郎こそが、近藤との運命的な出会いをあたえたのだ。
記念館は小さいが、歳さんから義兄彦五郎に充てた手紙など、新選組ファンには馴染みのある展示がある。


江戸市中:試衛館など

土方が天然理心流を学んだのは、今は新宿区の市谷甲良屋敷にあった近藤周助の道場「試衛館」である。そこには、周助の養子で跡目を継ぐ近藤勇が住んでおり、日野に出稽古に行っていた(そこで土方と近藤は知り合ったらしい)。試衛館には、沖田宗次郎(総司)・井上源三郎(日野出身)らの門人(沖田家と井上家は姻戚関係)のほかに、永倉新八・原田左之助・山南敬助・藤堂平助という他流の剣客が寝起きしていた。試衛館は歳三とともに新選組隊士として青春の華を咲かせ、散らすことになるこれら同志の集まったいわば新選組の原点となる場所だ。だが今では跡形も無い。

試衛館

跡地の場所は牛込柳町交差点のそば。東京生まれの者なら車の排気ガスが一番ひどかった場所として知られている。この牛込付近は新宿区の中でも、江戸時代の町割りが残っている。ついでにここは我が山根家の本籍地(若松町)のそばである。意外な因縁也。地下鉄大江戸線「牛込柳町」駅には試衛館跡地の案内地図が置いてあった。道にも新選組の隊旗がぽつんとあって(右写真。道に隊旗が居並ぶ日野や調布・三鷹とは大違い)、地図どおりに角を曲がると、貸し駐車場に真新しい解説柱が。奥には稲荷神社(左上写真。中には入れない)。この社はたぶんずっと甲良屋敷内にあったものだろうから、たとえばいよいよ浪士組参加に一同そろって出発する時など、近藤勇はじめ皆で参拝したに違いない。

伝通院

そして私も参拝した後、試衛館連中が浪士組結成に参加すべく一同で向かった小石川の伝通院に行く。前述したとおりこの付近は当時の町割りが残っているので道も当時のまま。目の前の大久保通りを進んで神楽坂の上をかすめ、筑土八幡の横を通って市谷に出、そこから神田川に沿って大曲(おおまがり)から安藤坂を登り、伝通院の門前に出ることにする。大久保通りといえば、近藤は甲陽鎮撫隊を率いた頃から「大久保」と名乗った。土方も「内藤」と名乗った。それぞれ徳川の譜代の家臣の姓だが、ともにここ新宿区の地名でもある(新宿=内藤新宿)。
試衛館の若者らが何度か往復した道をその一員になったつもりで歩く。神楽坂の上では左之(原田)が坂下の歓楽街を指さして「景気づけに一杯やってこうや」とか言って、源さん(井上)あたりにたしなめられたと想像。40分ほどで伝通院に着く。

伝通院の門前に、石柱があり、その案内板に、このあたりが浪士組を集めた塔頭の処静院跡であるとあった(左写真)。つまり現在の境内の外。ここに試衛館連や芹沢鴨らが集まったのだ。伝通院のある文京区は我が人生の中で最も長い生活をした所でいわば地元なのだが、この寺にきたのは中学校以来2度目。伝通院は音羽の護国寺と並んで文京区では将軍家に縁のある格式の高い寺。まず本堂に参拝した後は、礼儀として家康公の母伝通院殿の立派な見上げる墓に挨拶。

ここの墓地には浪士組を結成した清河八郎の墓がある。京都で近藤ら試衛館連が分離した浪士組は江戸に戻って新徴組となったが、当の清河は幕府側の佐々木只三郎に麻布赤羽橋で暗殺された。彼の墓は貞女(妾)の墓と並んで、子孫の齊藤家の墓と並んである(右写真)。清河は逆説的にも新選組の生みの親となり、近藤・土方らを町道場の剣士から歴史の激動の舞台へ上がらせたのであるから、いちおう御礼をしておいた(藤沢周平の作品に清川八郎の生涯を描いた小説『回天の門』がある)。

伝通院まで来れば、 土方ゆかりの地がもうひとつ近くになる。ただちょっと距離があるので門前から都バスに乗る。降りたのは上野広小路。そう江戸でも有数の大店(おおだな)、松坂屋があるのだ(左写真)。四男坊の歳三は母の死後、10歳の時にここに丁稚奉公に出された。ということは日野のお大尽土方家は江戸にもかなりの人脈があったのだろうか。
ところが歳三、組織の末端に甘んじる器量は子供の時分から持ち合わせてはいなかったようで、早々に店の者にひどく叱られたのに我慢できず、その夜出奔して、なんと夜通し歩いて日野に帰ってきた。こんな子供が十里の道をしかも夜中に歩き通すとは。納得できないことには我慢できない意地っ張りとそれを拒否する行動力には驚嘆。これ歳三最初の武勇伝といえよう。


●京都:新選組の夢の跡

京都の修学旅行生向けの土産には新選組系のものが圧倒的に多い。義経・信長、また同じ幕末でも龍馬より新選組である。中には芹沢鴨のような狼藉者もいたが、近藤・土方一派はストイックな掟によって王城の都市を真摯に守った。この江戸の武士たちの男気(おとこぎ)に共感が得られているのだろう。

八木家住宅

江戸小石川の伝通院を出発して、京に着いた浪士組。その一部が新選組となって京に残ったのだが、さて、その新選組の屯所となっていたのは、壬生寺にほど近い八木家である。八木家宅には今でも当時のままの建物が残っており、新選組の息吹を実感できる。門前には八木家が営んでいる和菓子屋があり、見学料を払うとそこで抹茶を飲める。
宅内に入るとボランティアの人が解説をしてくれる。土方らが芹沢鴨らを襲撃したときの刀跡(沖田の刀傷という説も)が残っている(写真)。
そのような殺伐とした跡ではなく、近藤と土方が相談したであろう部屋、沖田らが毎日通ったはずの玄関、そして殺伐とした日々を癒したであろう中庭の風景、これらがナマで残っている(写真)。この新選組と空間を共有できる悦びを解説の人も表現してくれる。門を出て菓子屋で新選組の扇を買った。

壬生寺

近くの壬生寺には、粛正された芹沢鴨をはじめとする十名の隊士の墓と近藤勇の碑もある、新選組ゆかりの寺だ。売店には新選組関係の本も売っている。7月16日の池田屋騒動の日には隊士らの慰霊供養際が行なわれる。

池田屋跡

その池田屋騒動、すなわち長州藩士らを襲撃した場所は、壬生から東に遠い河原町三条の通り沿いにあり、今ではパチンコ屋の喧騒の中に石碑があるのみ。


●武州 五兵衛新田:敗走の中

2005年3月12日(新選組の日)

観音寺
五兵衛新橋

慶応四年(1868)3月、甲陽鎮撫隊の勝沼での敗北のあと、永倉・原田とケンカ別れした近藤たちは、江戸郊外の五兵衛新田(足立区綾瀬)で新選組を再編成した。新政府軍の軍門に下るのを潔しとしない人たちが集まり200名を越える数になった。

五兵衛新田は、金子五兵衛という人が切り開いた土地で、その子孫の金子家宅に滞在した。戦いに疲れた土方はしばし休息。綾瀬川に釣り糸を垂れていると、近在の女達が「一度あんな男と寝てみたい」と噂する。美男ぶりは健在(このへんの話は大河「新選組!」にも登場している)。

JR常磐線(停るのは東京メトロ千代田線)「 綾瀬」駅を降り北西に向うると住宅街の中に観音寺(真言宗)がある。ここは金子宅とともに新選組が宿泊した所。丁度工事中で境内には入れなかったが、入口の説明板に新選組との関係が載ってある。境内には新選組関係の物はないから、別に気にしない。北上して富士塚のある稲荷神社を過ぎると、近在の地主らしい金子家にぶつかる。民家なので通り過ぎ、綾瀬側に向う。橋にかかる手前にあるウナギ屋に新選組の旗が1本立っていた。店の入口には「綾瀬新選組研究会」の大きな看板がうなぎ屋であることを忘れさせる。うどんもやっているのでここで昼食をとればよかった。
綾瀬川にかかる車中心の立派な橋の歩道を登る。登り切った所に「五兵衛新橋」の看板が。ここで土方は釣りをしたのかと思っても、汚れて護岸のある綾瀬川にはその面影がない。


●下総 流山:近藤との永訣

陣屋跡
江戸川

2004年12月

五兵衛新田にいた新選組は、新政府軍が近づいた報を聞き、さらに江戸を遠のいて江戸川を越えて下総(千葉県)の流山に陣を張り、再起を期した。

陣屋跡

その陣屋とした酒造家長岡屋の蔵が街中に残っている。蔵の前には石碑・解説板のほかに、記念用のスタンプがあり、おいてあるノートには若いファンが描きこんだイラストがぎっしり。新選組の武士道に共感している若者が多いのはうれしくなる。
見学対象としてはそれだけなので味気ないが、並びの酒屋(長岡屋を受け継いだ「秋元」)には新選組グッズや街歩きマップがおいてある(隣の小さな稲荷社に近藤・土方らが参拝したに違いない)。年末だったので市立博物館(陣屋の階段などが展示)が休みだったのは残念。

江戸川の堤防が近いのでそこに上がってみると、川向こうには武蔵(三郷市)の平原、はるか北は男体山・筑波山が見える。この地で近藤と永遠の別れをむかえてしまった土方は、この川べりで、近藤が連行されていった武州、さらにこれから向う北の常州や宇都宮方面を眺めたに違いない。
実は近藤との別れ以降が、土方新選組の第二幕となる。これ以降、土方自身が会津藩預かりの新選組鬼副長ではなく、新選組を包含した旧幕軍全体の有能で温情のある将校に進化していく。その転換点がこの流山だ。

隊士たちが分宿し調練の場としていた光明院(新選組関係の掲示はなし)、その隣り流山の由来となった流れてきた山のある赤木神社へも、堤防を歩いていける。東京から半日ほどの小旅行。


●会津:北行の途上

2007年9月

奥州街道に沿って北上を続けた土方ら旧幕軍は、宇都宮から、会津街道(今の野岩鉄道沿い)を北に進み、大内宿を経由して、慶応4年4月29日(流山で別れた近藤勇が板橋の刑場で斬首された4日後)に会津若松に入った。ここ会津は京都守護職・松平容保(かたもり)の本拠地だけに、他藩のように藩論が二分することなく、ほぼ一丸となって新政府軍に抵抗する構え。
そのおかげで、会津入りした土方にとっては、しばし戦いの緊張から解放される。

七日町の清水屋(現在は跡地)を宿にし、天寧寺が新選組の屯所に充てられた。
実は土方は、宇都宮城の攻防戦で足に重傷を負い、療養のため戦列から離脱していた。その間、新選組の指揮は斎藤一(この時は山口次郎と名乗る)に委ねた。
土方は会津入りして間もなく、近藤の訃報を知ったはずである。覚悟していたとはいえ、盟友の死を悼む気持ちは抑えきれない。
彼は容保に願い出て、ここ天寧寺に近藤勇の墓の建立したようだ(建立者は容保とも)。少なくとも、土方が会津に居る間に近藤の墓ができ、彼が墓参したのは確かだ。

そういうわけで天寧寺は、会津で新選組第一の史跡となっている。
私は別件(小笠原氏史跡の旅)で慶山の大龍寺に立寄ったため、北側の正伝寺からハイキングコース沿いに向った。「近藤勇の墓」という道標をたよりに、山道を登ると、墓の案内板があり、近藤辞世の漢詩の碑があり、その奥に立派な墓が建っている(写真左)。
近藤の墓は、菩提寺である三鷹の竜源寺(胴体が埋葬)と板橋にあるが、ここ天寧寺には頭部が埋っているという(疑問だが)。少なくとも建立時期は一番早く、土方が墓参した唯一の墓。
「貫天院殿純忠誠義大居士」という近藤の生きざまそのものを示した立派な戒名は、容保自身が授けたもので、斬首された勇の霊も少しは浮かばれよう。
近藤の墓の右隣に、近年、地元のライオンズクラブの人たちによって土方の供養塔も建てられた(写真)。近藤と土方を一緒に供養したいという気持ちは、ここだけでなく日野や板橋にも実現されている。
これらの墓前には献花も真新しく、新選組ゆかりの地には必ずある墓参者が書き記すノートも数冊分たまっている。私が去る時にも、父娘連れがやってきた。
新選組は会津の人たちには人気ないと思ってたが、今では他の地と同様な人気らしい(新選組ファンが全国からやってくるともいえる)。
今では、4月25日の命日には供養祭も行われるという。

さて、近藤の墓ができた会津に、7月になって、新政府軍がいよいよ迫ってきた。戦線に復帰した土方だが、多勢に無勢で、8月22日の母成峠の戦いで破れ、土方はそのまま会津救援要請のため庄内へ、そしてさらに仙台に向う。そのため、ここで会津に残るという斎藤一と別れることになり、新選組は分解する。

斎藤は、新選組は会津藩直属だという認識らしい。たしかに京都の新選組は”会津藩預かり”で、実質的に藩主容保が直属の上司だった。でもそれは京都で成立した壬生浪士組改め「新選組」の話。もともと土方は近藤らとともに、徳川の御為にと”浪士隊”に参加したのだ。新選組は彼らの本来の目的を果たすために浪士隊を後継した組織にすぎない。多摩天領に生まれ、幕府直属こそがアイデンティティであった近藤・土方にとって、会津藩主容保候は上司ではあっても、主君ではない。浪士隊となって幕府に身を捧げた側と京都で入隊した側との視野の違いであろうか(斎藤が個人的に会津藩と関係があったとの説もある)。
土方にとっては、会津は北上の途上でしかなかったのだ。
ちなみに、市内の阿弥陀寺に斎藤一の墓がある。


●函館:終焉の地

2002年1月.

終焉の地

函館市内に「土方歳三終焉の地」がある.函館駅前から歩いていけるので,観光案内図で確認しよう.小学校のそばだ.石碑がある一本木の関門跡は整備され,公園風になっている.碑の下には例の写真が飾ってある.記念写真のためのカメラを置く台もセットしてある.冬のシーズンオフだというのに,献花が新しい.篤志家によるのだろう線香の設備がある.それを借りて蝋燭を灯して線香を手向ける.辞世の歌も記されている.

「たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも
  魂(たま)は東(あづま)の君やまもらむ」

冬の寒風の中,歳さんが銃弾で斃れた跡地に一人たたずんでいると,歳さんの冷たくなった屍(かばね)を前に立ちつくしているような気になって,つらくなる.合掌.

五稜郭

函館に来たらもちろん五稜郭だ.駅前からは市電かバスで行く.城跡は公園となっていて,城内の博物館には新選組の隊士中島登が描いた歳さんなどの姿絵がある.戦傷者の治療に使われたという西洋医学の道具もある.そこで思いだしたのは,曽祖父の事.戦いで腕に重傷を負ったので,メスで切ろうとしたら「武士に洋刀を使うとは何事か」と一喝し,自分の刀で腕を切ったという.勇ましい話ともいえるが明治二年の時点でいまだ「攘夷」思想だったようだ.そこが歳さんとは違う.

城跡向かいの五稜郭タワーにあがれば,五稜郭のカクカクが一望(写真).一階の売店にも歳三グッズや歳三本がそろっている.

●碧血碑

函館に来た歳三・新選組ファンの方は,函館山の南麓にひっそりとある「碧血碑」にぜひ訪れてほしい(市電の終点谷地頭から徒歩).函館で歳さんとともに戦死した幕軍側の慰霊碑だ(定義上,歳さんも慰霊に含まれる).新政府側の戦死者は「護国神社」として立派に神として祀られているらしいが(私は行かない),それに対して,蝦夷共和国を作ろうとした幕軍の慰霊碑はしばらくは建てるのもはばかられ,建てられた場所も一目を避けるように山のはずれにひっそり.でも碑としては大きく格調がある.
凍った土の道を登って,碑の下に花を置いた(献花する場所がない).碑の入り口には四阿(あずまや)があり,そこにはノート・筆記具・線香などが置いてある.さっそく線香を3本拝借して碑の雪面に差してきた.ノートをみると,地元の若い人がボランティアで掃除や来る人のために線香やカイロまで用意しているらしい(カイロは地元の人間が盗むので置くのをやめたとのこと).来訪者の記入にコメントしてあるのがおもしろい.私は幕軍の子孫として謝意を記し,線香料に寸志を置いてきた.


●江戸板橋 近藤勇とともに

JR赤羽(埼京)線板橋駅の東口改札を出ると正面。そこは北区滝野川なのだが、大きく「新選組隊長近藤勇墓所」の立て看板が目につく。ここは板橋で処刑された近藤勇の胴体が埋められた所という。

慶応四年(1868)流山で近藤と土方は別れ、北行する土方に対し、近藤は西(新政府)軍に投降、そして処刑された。後の明治九年(1876)、同志であった永倉新八が、隊士たちの供養塔をここに建立した。中央の石塔には「近藤勇昌宜・土方歳三義豊之墓」とある。土方には直接ゆかりのない場所なのだが、同志永倉にとっては、近藤と生き別れ、そして最後まで新選組を貫き函館で散った副長を隊長近藤と一緒に祀ってやりたい気持ちだったのだろう。周囲には建設当時に死去している新選組隊士の名が彫られてあり、新選組全体の慰霊碑の意味を持つ。

狭い敷地だが、近藤・土方・永倉3名の肖像つき解説があり、また固有の絵馬も近所の店で売っている。4月25日の近藤の命日(あるいはその直前の日曜)には供養祭がおこなわれる。

山根一郎旅の世界に